孫の結婚式
父のおでこと肘の傷は、姪の結婚式の前に、すっかり目立たなくなった。挙式は親族だけで執り行うため、列席しない私の使命は、父を無事に送り出すことだった。
父が出発する1時間前、モーニングを着せるために、私は父の家に行った。ところが、父はパジャマのままでくつろいでテレビを見ている。
「時間がないよ。早く顔を洗って、髭を剃って!」
姪の父親の代わりにバージンロードを一緒に歩くプレッシャーから逃れるように、「急がなくても間に合う」と開き直っている。私に急かされて、ようやく父は身支度を始めた。最後に靴下をはくように言うと、父は椅子に座って足を私の方に向けて、甘えた声を出した。
「はかせてくれ」
晴れの日に遅刻したら大変だ。私は黙って父に靴下をはかせ、立ち上がるように促してから言った。
「パパ、ばっちりだよ」
やっと父は笑顔になり、背筋をピンと伸ばして、鏡で自分の姿を確認してから、迎えの車に乗り込んだ。
父の頬に伝わる涙
それから1週間後、父は94歳の誕生日を迎えた。父のお気に入りの菓子店、「六花亭」の喫茶室では、誕生日当日に来店した人に、ケーキと飲み物をプレゼントしてくれる。お店の人たちからお祝いの言葉をかけられて、父はとてもうれしそうだった。
帰宅後に、父は久しぶりに運転免許更新の話題を私に切り出した。
「誕生日がきたから、更新に行く。会場まで乗せて行ってくれないか」
私が断ると、父は理由を知りたいと言った。昨年末に起こした自損事故や、その後も体調不良が続いて、救急車で運ばれたことがあったから、運転するのは危険だと諭すと、父は言った。
「俺が救急車に乗ったのか?」
「そうだよ」
「まったく覚えていない……」
傷口に塩を塗るようでかわいそうだったが、私は心を鬼にして言い足した。
「救急車に乗ったことも忘れる人に、免許を更新させることはできないよ」
父の両目から、スーッと涙が零れた。
「俺は、そんなに忘れっぽくなっているのか……」
初めて見る父の涙に、私も鼻の奥にツーンとこみ上げてくるものがあった。
(つづく)
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