転んでケガしたことを恥じる父
7月の暑い日の朝、私は父に電話して、水分補給を忘れないようにと念を押しておいた。しかし、なぜか胸騒ぎがして、午後一番に父に再び電話をかけたが、固定電話も携帯も、何度かけても応答がない。脱水症状で家の中で倒れていたら大変だ。
いつも通り夕方行くつもりでいたけれど、悠長に構えていられない。何か良くない事態が起きている可能性もある。スマホをハンズフリーにして、父の電話を呼び出しながら、私は家を出る準備をした。
車を出発させようとした時に、やっと父が電話に出た。良かった、生きている。
私は優しい声で父に話しかけた。
「電話に出ないから、心配していたよ。どうしたの?」
「俺も年を取ったな……外で転んでケガをした」
足が丈夫なのが自慢の父だ。転んだと告白するのが屈辱だったのは、その言い方からも察することができた。本人が悔しがっているのだから、できるだけ傷つけないように言葉を選んで、状況を聞き出そうとしてみる。
「どこで、どんなケガをしたの?」
「コンビニで買い物した帰りに、知らない家の前で転んだ」
私が夕方家に来るのを忘れて、夕飯を買っておこうと思ったらしい。父の家から最寄りのコンビニまでは、数百メートル離れているが、転びやすい段差はあまりないはずだ。私はケガの程度を知りたかった。
「血は出ている?」
「あぁ、肘とおでこから血が出ている」
と答える父に、私は頼んだ。
「手を動かしてみてちょうだい。動く? 骨折はしてない?」
父が腕を伸ばしたり縮めたりしている様子なのは、返事に数秒かかったことから伝わってきた。確認がすんだらしく、父は元気に答えた。
「傷がヒリヒリするだけだ。曲げ伸ばしは普通にできるから、骨折はしていない。悪いけど、軟膏を買ってきてくれ」
「悪いけど」と父が言ってくれたことで、私は機嫌よく返事ができた。
「はい。すぐに行くから、じっとしていてね」
消毒薬、軟膏と絆創膏をバッグに詰めて、私は父の家に向かった。
ケガは2か所とも思ったより軽かった。肘のあたりに5センチ程の切り傷があり、周辺は内出血で青黒く色が変わっている。おでこにも3センチほどの切り傷があるが、そこが腫れて盛り上がっていることのほうが、私には気になった。丁寧に消毒して、軟膏を塗り、絆創膏を貼ってから父に言った。
「10日後に結婚式があるから、毎日薬を塗って、早く治そうね」
父は驚いた顔で、私に、姪の結婚式の日取りを確認した。
「そうか、もっと後だと思っていた」
父の目の前のカレンダーには、その日にはっきりと丸印を付けてあり、楽しみにしていたはずだ。物忘れがより激しくなっているのは、隠しようのない事実だった。