その陣容は軍船900隻、兵力は4万

高麗の史書『高麗史』によれば、元は高麗に対して、6ヵ月以内に大型軍船300隻、小型上陸艇300隻、水汲み艇300隻を建造するよう厳命し、さらには大工や人夫として3万人以上を徴発させました。

当時の高麗の人口は250万〜400万人と推定されています。元の中国部分の人口は1億人ほどで、日本の推定人口は約800万人という時代でした。

ところが、準備期間が終わる6月になって、不慮のできごとが起こりました。高麗国王の元宗が病死したのです。8月には後継の忠烈王が元の都において王位継承の式典をすることになり、日本侵攻は10月に延期されました。出征は3ヵ月も遅れることになったのです。

しかし、フビライは特段にそれを問題視しませんでした。西暦663年に、日本は当時の百済を救済するため軍船800隻と4万2000人の大軍を朝鮮半島へ送って唐・新羅連合軍と戦い、大敗しました。

この白村江の戦いの記憶から、元には日本など与しやすしという先入観がありました。当時、九州の行政・軍事の中心だった博多の大宰府を陥落させて九州を占領すれば、日本征服などたやすいと考えていました。

【図】元・高麗軍の襲来ルート(『日本史サイエンス』より)

しかし、結果的にこの3ヵ月の遅れが、元にとって取り返しのつかない痛手となり、日本に僥倖をもたらすことになったのです。

旧暦1274年10月3日、蒙古軍は高麗の合浦(がっぽ。現在の馬山)に集結し、日本侵略に向けて出港しました。その陣容は軍船900隻、兵力は4万といわれています。