北条時宗執権の日本を標的に定めた元
まず、蒙古襲来に至るまでの、元と日本がおかれた時代背景を見ておきます。
ときは13世紀の初頭、日本は鎌倉時代で執権北条氏が実権を握っていました。モンゴル高原出身の遊牧民チンギス・カンは疾風怒涛の勢いでユーラシア大陸を席巻し、史上空前の巨大帝国を築きあげました。
日本の鎌倉時代には第五代皇帝フビライが拡大政策を続けていて、1271年に国号を「元」と改め、長年侵略していた高麗を配下に収めると、その先の海上にある島国を、次なる標的に定めました。元と敵対する南宋と交易をしていた日本です。
その理由は、日本がマルコ・ポーロの『東方見聞録』に「黄金の国ジパング」と書かれたほど豊かな国であったためともいわれていますが、歴史学者・服部英雄さんの『蒙古襲来』(山川出版社)では、火薬の原料である硫黄が中国大陸ではあまり採れず、日本ではとくに九州で大量に産出して元の敵である南宋にのみ輸出していたからだった、という注目すべき説を提唱しています。
フビライは日本に対し、1266年から1272年までに合計6回も、モンゴル帝国の属国になるようにと書かれた国書を携えた使節を送りました。表現こそ穏やかながら、それは、圧倒的な武力をちらつかせての恫喝にほかなりませんでした。
鎌倉幕府では、1268年に北条時宗が18歳の若さで執権についたばかりでした。度重なる使節に対してどう対応すべきか、幕府はついに結論を出せず、一度も返答しませんでした。
1271年1月、フビライは5回目の使節を日本に送ることと、軍隊を高麗に駐屯させて食料と戦艦を金州(現在の韓国・慶尚南道金海市)に集結させることを命じ、日本攻略の準備を開始しました。そして、南宋との戦いにめどが立った旧暦1274年、フビライはついに日本侵攻の号令を発します。