秀吉の立場で、AHPによる意思決定をしてみると
「AHP」で選択する中国大返しの方法では、1582年6月3日の夜、備中高松で、なんらかのかたちで本能寺の変が起きたことを知った秀吉の立場で、AHPによる意思決定をしてみましょう。
もちろん、その状況の複雑さはスーツを買うときの比ではなく、評価の基準や選択肢も多岐にわたりますが、ここではあえて単純化して、京都へ引き返すのに陸路をとるか、海路をとるかの二択で考えてみたいと思います。
まず、レベル1の階層である意思決定の目的は、「備中高松から京都への移動」です。その後の光秀との決戦をできるだけ有利に迎えるための移動方法ということです。
レベル2の階層である評価基準として、最初に思いつくのはなんといっても「速度」です。
では、もう一つはどうすべきでしょうか。速度と対立軸にあるものとしては、速度を抑えて進むほど多くの兵が少ない消耗で京都にたどりつけるので、「兵力」とします。
レベル3の階層の選択肢は「陸路」と「海路」です。
陸路案は、秀吉以下の全軍が山陽道を通って京都へ急ぐというものです。ただし、通説のように約220キロメートルを8日間で踏破するといった非現実的な計画を立てることはできません。京都に到着後に戦える程度の消耗に抑えられる日数としては、一日に20km進むとして、11日間ほどでしょうか。
一方の海路案は、秀吉と直属騎馬隊や側近だけが片上から赤穂まで船に乗って姫路城に急ぎ、京都に先行するというものです。
では、レベル2の評価基準の重みづけをしてみましょう。これから私たちが天下取りをめざすなら、最も重視すべきは速度であろうと思われます。光秀に応戦準備をする時間を与えないことも当然ながら、各方面に散っている織田家の諸将、なかでも最大のライバルである北陸の柴田勝家が引き返してくると、信長の後継者として絶対的な地位を占めることができなくなるからです。
結果として、謀反を知った柴田勝家は18日には近江(滋賀県)にまで戻っていました。かりに秀吉の到着が5日遅れていたら、天下の形勢は混沌としてしまっていたでしょう。