イヤイヤ期がやってきた

居間の状態を把握してから、テレビの音が聞こえる寝室に向かう。父はベッドに横になったまま私を一瞥して、「来たのか」とだけ言った。

残暑が厳しいのに、窓を閉め切っているため、寝室にはモアッとした空気が漂っている。居間にはエアコンがあるが、寝室にはなく、温度計を見ると29.7度になっていた。私は、窓を開けながら父に言った。

「熱中症になってしまうよ。居間に行ってお水を飲もう」

「いやだ」

「なんで?」

「飲みたくない。面倒くさい」

この頑固者め!と心の中で罵りながら、私は台所に行ってコップに冷たい水を入れ、寝室に持ってきた。渋々上半身を起こした父は、一口だけ水を飲むと、再び枕に頭を下した。朝から飲まず食わずの人が、その程度の水分補給で足りるわけがない。

「もっとたくさん飲まなきゃ、脱水状態になるよ」

すると父はまた言う。

「いやだ」

なぜいちいち反抗するのだろう。私は腹が立ち、嫌みを込めて父に言った。

「パパは2歳児? イヤイヤ期がきたの?」

言い合いになると、ボーっと横になっていた父の会話の回路に、突然スイッチが入る。父は機嫌の悪い声で言った。

「俺は2歳じゃない。94歳だ」

「あ、そう。じゃあ、十分大人なんだから、水分補給は自分でやって」

「いやだ」

「飲まない、食べないじゃ、死んでしまうよ」

どうやら父は、まだ死にたくないらしい。急に体を起こしてベッドに腰かけ、コップの水を3センチほど飲んだ。前向きな気持ちが残っているうちに、父の生活のリズムを戻してやらなければならない。私は下手に出て、優しく父に提案した。

「着替えて、エアコンのきいた居間に行こうね。そして、冷たいポカリスエットを飲もうよ」

このところ能面を思わせるほど無表情になった父は、私と目を合わさずに返事をした。

「いやだ」

私は暑さもあって頭にカーッと血が上ったが、気持ちを抑え、父の神経を逆撫でしないように気持ちを聞き出した。その結果、父の言い分がわかった。

「年を取ったら汗はかかないから、着替えをしなくてもいい。おなかも空かないから食べない」ということらしい。

幼児期のイヤイヤなら、成長に従い、そのうち終わると期待できる。だが、父の場合は、イヤイヤがもっとひどくなるのが目に見えている。終わりが見えない介護の辛さ。いよいよ私にも、本格的な介護の苦労が始まった。

とにかく脱水が怖いので、常備しているポカリスエットとOS-1(写真提供◎森さん 以下すべて)