身内の主治医にはなれないと判断して

母の雅子さんは、息子の主治医にはならなかった。

「身内への医療となると、どうしても冷静な判断ができないからです。私は麻酔科医でしたが、夫が大怪我した時も麻酔はほかの医師に任せ、見ていただけです」

剛さんの姉と父の恵一さん(77歳)は歯科医師である。若い頃、ボーイスカウトのリーダーとして活動した恵一さんは、小児喘息に苦しむ剛さんと毎日一緒にジョギングをし、息子の体を鍛えることで克服させた。剛さんが大学生の時は、二人でニュージーランドへキャンプ旅行に行くほど仲の良い父子だった。「剛ががんだとわかった時、夫はできることなら代わってやりたいと泣いていました」と雅子さん。

とはいえ、小学5年生で「医者になる」と決めていた剛さんの進路に関しては、雅子さんの存在が大きかったようだ。

「まあ、剛の性格的に、血を見るような外科医は向いていないと思いました。彼は心理学のような学問が好きでしたが、医学の分野は幅が広い。医学部に進めば精神科医にもなれるし……。とにかく医学部へ入ることからでした」

 

チューブだらけの祖父が怖く見えた

だが、医学部合格は簡単ではない。剛さんは勉学に励み、阪神・淡路大震災の起きた1995年の春、関西医科大学に合格した。卒業後は内科研修の後に消化器肝臓内科を専攻。大学院で博士号も取得して、同大学附属病院の消化器内科医を経て六甲病院の緩和ケア内科に3年間勤務し、現在に至る。がんや腫瘍は消化器系にできることが多く、必然的に、がんについても勉強するようになった。

消化器内科が専門だった剛さんが緩和ケア医になったのは、遠い昔の体験が大きく影響している。小学5年の時、母方の祖父が脳塞栓症で倒れた。祖母から「死なせんとって」と頼み込まれた雅子さんは、意識がない祖父に人工呼吸器を装着した。「1秒でも命を延ばす」ことが医師の使命とされた当時、当然の処置だ。

雅子さんに病室で「触ってあげて」と言われた剛さんは、祖父に触れられなかった。「シュー、コーという機械音だけが聞こえた。全身チューブだらけで手足がむくみ、怖い物体にしか見えなかったのです」(剛さん)。