都合の良い“毒殺”は確認できない

ただし「政範を毒殺」というのは、ちょっと無茶かもしれません。

毒殺で人の急死を説明するのはすごく簡単で便利です。でも、江戸時代以前の日本史には、都合の良い毒薬なり毒物を確認することはできないんじゃないかな。

日本史上で最も有名な毒殺というと、足利尊氏が弟の直義を鴆毒(ちんどく)で殺した、と『太平記』に書いてあります。

鴆毒とは、鴆と呼ばれる空想上の鳥の羽を酒などに浸して作成する猛毒のことですが、空想上の鳥というのでは、実在しないでしょうね……。

ほかに有名な話では、豊臣秀吉への従属を巡り、伊達政宗がお母さんに毒殺されそうになったという話。

お母さんの義姫が政宗に食事を振る舞うと、政宗は強烈な腹痛を覚えた。義姫は政宗を殺害してその首を差し出して秀吉に伊達家の存続を許可してもらい、次の当主には弟の小次郎を想定していた。でも政宗は一命を取り留め、小次郎を成敗。義姫は実家の最上家に逃亡した、というのです。

これは『貞山公治家記録』という仙台藩の正史に書かれているものなのですが、うーん、未遂だからなあ。義姫が最上に帰ったのも四年後であることが分かっていて、史実と決められそうにないらしいです。