”遅れてきた戦国武将”政宗
政宗が出羽(でわ、現・山形県および秋田県)の米沢で生まれたのは、永禄(えいろく)十年(1567)のこと。家督を相続したのは、天正十二年(1584)のことです。
天正十二年と言えば、秀吉と徳川家康との間で小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦いがおこなわれた年であり、その翌年には秀吉は関白に就任しています。秀吉は名実ともに天下人となり、長かった戦国の乱世の時代も、そろそろ終わりに近づこうとしていました。
そういう意味で政宗は、「遅れてきた戦国武将」であったと言えます。
秀吉は天正十三年から、大名同士の領地争いを禁じる「惣無事令(そうぶじれい)」を発します。
ところが、血気盛んな若武者であった政宗は、これを無視し、会津(現・福島県会津地方)を支配する蘆名氏を攻撃。みごと勝利を収めて会津を手に入れ、一躍、百四十万石を有する奥州最大の大大名にのしあがりました。さらには関東の北条氏と手を組み、常陸(現・茨城県)の佐竹氏の領地を虎視眈々とうかがっていました。
この振る舞いを、秀吉が黙って見ているわけがありません。
「なぜ蘆名を討ったのか、上洛をして弁明、釈明せよ」
秀吉は政宗にそう命じます。しかし政宗は、これに応じませんでした。