西の毛利につくべきか、東の織田につくべきか
官兵衛は天文(てんぶん)十五年(1546)、播磨(はりま、現・兵庫県南部)の小大名・小寺氏の家老の家に生まれます。小寺氏を含め、当時の播磨には中小勢力がひしめき合っていました。
そんな中で、まず西に毛利、次いで東に織田という大勢力が現れ、播磨は両者に挟まれるかたちになりました。しかも織田は西に進軍する動きを見せており、やがては織田と毛利は激突することが予想されました。
その様子を見て官兵衛は、「我々のような中小勢力が生き残るためには、この二大勢力のうちのどちらにつくか、旗幟(きし)を鮮明にしなければいけない」
そう考えました。日和見(ひよりみ)を続けていれば、毛利、織田のいずれからも敵とみなされ、叩かれる可能性があるからです。
では、小寺家は西の毛利につくべきか、東の織田につくべきか。
現代風に言えば、毛利家は安定感のある大企業。一方の織田家は、つい最近上場を果たしたばかりの新興企業です。
「つまりは、成り上がり者ではないか」というのが、世間一般の織田家に対する評価であり、小寺家の重臣たちの見立てでもありました。