官兵衛が「織田につくべき」と主張した理由

ところが、小寺家の中でも、官兵衛だけは意見が違いました。

当時、官兵衛は三十歳。重臣たちの中では、もっとも若輩者だったと思われます。しかし、居並ぶ重臣たちを前に、官兵衛は評定の場で真っ向から、

「小寺は織田につくべきです」

と、堂々と持論を展開します。彼の主張の理由は、次のようなものでした。

なるほど、確かに毛利には安定感がある。当主の毛利輝元を支える吉川元春(きっかわもとはる)と小早川隆景(こばやかわたかかげ)の”両川(りょうせん)体制”も盤石だ。しかしいかんせん、輝元の大将としての器に疑念がある。そもそも輝元は、一度も戦場において采配を振るったことがない。これからの世をどうしたいのか、という構想も持っておらず、与えられた領地を守ることにしか関心がない。

これに比べて信長は、桶狭間の戦いや姉川の戦い、そしてつい先頃おこなわれた長篠(ながしの)・設楽原(したらがはら)の戦いにおいても自らが采配を取り、ことごとく勝利を収めてきました。