洋楽を日本に広めた第一人者
それより前、音楽評論家の先駆者として、多くの外国人アーティストと親交がある湯川さんの功績をあらためて目の前で見せてもらう機会にも恵まれました。2016年6月18日、「湯川れい子生誕80年、音楽評論家55年、作詞家50年」というタイトルの“お祝いの会”に出席したときのことです。1000人ものお客さんが集まり、湯川さんが作詞をした大ヒット曲のメドレーでは、オリジナルの“御本人”がステージで次々披露。さらにモニターには、多くの外国人アーティストとのツーショット写真や、通訳なしでインタビューをされたり、和服姿でアメリカのテレビ番組に出演されたりしている動画が映し出されました。その中には、この日のために撮影したVTRで祝福メッセージを寄せる方もいらしたほどです。
会場では、重鎮とも言うべき大手芸能プロダクションの名物社長さんらが“丁稚”のように雑務をこなしていらっしゃるのも見ました。これも衝撃的でした。
湯川さんは東京生まれ。恵まれた家庭で育った“お嬢様”ではありますが、働く女性の数がまだ少なかった戦前、戦中、戦後を「職業婦人」として生き抜き、しかも、まだ多くの方がやっていなかった“洋楽”を日本に広めた第一人者。いくら才能と美貌をもちあわせていらしたとはいえ、私などが知りえないたいへんな苦労をされてきたと思われます。
お兄様を戦争で亡くされた話も聞いたことがあります。だからこそ、平和活動に熱心だし、弱者が酷い目に遭っていることに決して目を瞑らない方。殺処分がいまだにゼロにはならない動物愛護活動に心を寄せていらっしゃることでも知られています。ただその傍らには、「いつも音楽があった」と仰います。
パーティーの挨拶状の中で湯川さんは「音楽業界もさまざまに変化しておりますが、此の世から音楽がなくなる事だけはないと信じております。これからも、好きな時に好きな人と好きな音楽が楽しめる日本であり、世界でありますようにと、心から念じております」と綴っていらっしゃいました。