お国のために死ななかった卑怯者

戦争中は、ほんとにお腹がすきましたね。とにかく猛烈な食糧不足。食糧切符が配られると、兄とバケツを持って、おかゆをもらいにいく。おかゆといっても豆乳みたいに真っ白で、かき回すと底のほうからお米がふわーっと浮かんでくるんです。

一番のごちそうは、おから。お団子にして焼いてお油をつけて。お腹がすきすぎると眠れないということも初めて知りました。

買い出しには、母と兄と3人で行きました。買い出しといっても現金は通用しません。母の着物、帯、指輪などとの物々交換です。今でも買い出し先の農家のお名前を覚えていますよ。木下さん。燻したような土間のにおいまでよみがえってきますね。中央線で国分寺まで行き、多摩湖線に乗り換え、行き先は今の東村山市です。

母はどこにそんな力があるのかと思うほど、両手にいっぱいサツマイモなんかを持って、背にも山ほど背負い、おどろきましたねえ。

国分寺といえば、戦争が激しくなる前に、そこから是政線(現・西武多摩川線)に乗って、家族と桜が満開の多磨墓地へ行き、帰りに必ず東京天文台に寄ったものでした。忘れられない思い出です。

学校でも戦時色はどんどん濃くなりました。そんななかでも、僕の国民学校の担任の先生は、宮沢賢治に傾倒していて、週に2日ぐらいは彼の物語や詩を読んでいました。今思えばすごいことですよね。その先生は、当時東京と大阪にしかなかったプラネタリウムにも連れて行ってくれました。「とにかく今のうちに見ておきなさい」と。

悪化の一途をたどる戦況にともない、学童の集団疎開が始まります。私は、父の赴任先をたよって北九州の田舎町に。そこは、まるで未知の世界。

今でこそテレビなどで全国の情報も共有されますから、異郷というまでには至りませんが、当時はまず、標準語が通じない。しかし、授業ではいい点をとるということで、いじめの標的に。とうとう登校拒否になり、三つ目の国民学校に落ち着きました。

ひどい暴力教師もいた一方で、東京で学んだという理科や音楽の先生に可愛がっていただき、終戦を迎えました。戦後は戦後で、特攻兵として飛び立ったものの、搭乗機のトラブルで引き返したために「不名誉な生き残り」「お国のために死ななかった卑怯者」という目で見られたことで、大荒れの先生もいました。

自宅にあるグランドピアノの上で楽譜を広げながら(左は筆者)