死にゆく人と話し合うことは難しい

最後の第5の後悔はお墓のこと。夫のために、私は新しく公園墓地を購入した。治療に多額の費用を支払ったので、予算もなく小さなお墓だが、夫とよく出かけたハーブ園の隣に納骨。生前に話し合えなかったことが残念だが、親より早く、夫婦の墓を決めることになるとは思わなかったのだから仕方がない。

通夜のあと、夫の親友が封筒を渡してくれた。入院ベッドの夫からレターセットとペンを頼まれて、最後に封筒を預かったのだと言う。文章を書くのが好きだった夫のこと、きっとメッセージを残してくれているはず、と期待して便箋を開くと、白紙のままだった。私たち家族はまっさらな便箋を見て拍子抜け。もしメッセージがあれば、今後の人生の励みになっただろう。

でも、これも遺された者が感じることで、書けなかったのか書かなかったのか、夫の真意はわからない。せめて便箋に書き残そうとしたその気持ちに感謝しよう。「なんか詰めが甘いんだよね、パパらしいね」と、子どもと私は泣き笑いした。

夫の死から7年、いまも彼を思い続けている。

私も後悔しない見送りのために、エンディングノートの必要性を感じ、情報を残すべきなのは重々承知している。遺影用の写真だって必要だ。でもまったく準備は進まない。

死にゆく人と話し合うことは難しいものだとつくづく思う。いっぽう、「死んでしまえば本人にはわからないから、できる範囲でいい」という考えもある。

今回私が抱いた後悔というのは、遺された私がすべて決めなくてはならないことの「心細さ」の表れだったと思う。元気なうちに話し合っておけば、死ぬ人、遺される人、双方が安心できるだろう。

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