「大切な存在を失わなければ気づけなかった。でもそれは僕の行動の結果だから、受け入れないと」(高知さん)

 

僕の生い立ちは複雑で、小学校4年生までは祖母に育てられました。ある日、時々来ては欲しいものを何でも買ってくれるおばさんが母親だと知らされ、一緒に暮らすことになります。父親は任侠の世界の人で、周囲には若い衆が大勢いた。のちに母が愛人であることを知りました。

僕は中高一貫の全寮制の学校に入り、甲子園常連の野球部でピッチャーをしていましたが、試合があっても母は来てくれなかった。ところが高校3年のある日、突然学校に現れたのです。いつも着飾っていた母が、ジャージ姿で他の保護者に交じって料理を作っている姿を見たときの嬉しさといったら……。

後日、母が切羽詰まった様子で今すぐ進路を決めろと迫り、「任侠の世界は絶対にダメ」と言われたのを覚えています。別れ際に母からなぜか「私、綺麗?」と訊かれたことも。「気持ち悪いことを言うなよ」と答えると、笑いながら涙をこぼしていた。話をした1時間後に、母は自殺しました。

その後、父親だと思っていた男性と血のつながりがなかったこともわかり、故郷にいることがつらくなって高知県から上京したのは20歳のときです。「絶対に成り上がってやる」。その一心でした。でも都会のハードルは想像以上に高く、仕事にもつけず、代々木公園で2週間くらい野宿していたこともあります。

そのうちに原宿の広場で雑貨を売るバイトが見つかり、交友関係が広がるなかで、年上の会社経営者と仲良くなりました。昼はバリバリ働き、夜は華やかに遊ぶ豪快な男性で、彼がカジュアルに薬物を使っていたのです。僕も勧められるまま使うようになり、正直な話、罪悪感は薄かった。

裁判で、「20歳の頃から薬物を使用していました」と言いました。メディアではほぼ毎日使用していたかのように報じられたそうですが、そんなことしたら死にますから。ただ、つらいことがあったり、未来の不安に襲われたり、孤独で胸が張り裂けそうな夜も、薬物に頼って依存してしまったのは事実。

もちろん、どんな事情があろうと言い訳にしかならないことはわかっています。でも僕が伝えたいのは、周りから人がいなくなった後で自分の孤独に気づき、それを包み隠さず人前で話せるようになったら、嘘のように楽になれたということです。