いつ「のえパパ」こと伊賀朝光は伊賀守になったのか
では、いつ伊賀氏は伊賀氏になったのか。言葉を換えると、いつ「のえパパ」は伊賀守になったのか。
これについては詳しい論証は省くのと、ここだけすみません、ややネタバレとなりますが、明らかに平賀朝雅が失脚した後ですね。
それまでは幕府内で存在感が薄かった朝光ですが、婿の義時が伊賀の国司にねじ込んでくれたのでしょう。義時とのえさんの婚姻があったから、幕府の一文官にすぎなかった朝光は、一躍、国司となり、幕府の要人の仲間入りを果たしたのです。
それで、実はこの伊賀という国がきわめて重要なのです。
伊勢・伊賀は平家の本拠地。平家都落ち以降も、平家に心を寄せる武士が多く盤踞(ばんきょ。根拠地を占めて勢力をふるうこと)していた。
源頼朝はそんな伊賀国に大内惟義という武士を送り込み、武士を統轄させた。惟義は平賀朝雅の兄です。足利氏をしのいで、源氏一門のトップの座を占めた信濃源氏です。
彼は伊賀国で強大な権力をふるい、国府近くの大きな荘園、大内荘も獲得した。それで平賀の名跡は弟の朝雅に譲り、大内を名乗った。これが始まりとなり、伊勢と伊賀は、大内氏と平賀氏の金城湯池となります。平賀朝雅は、伊賀の知行国主にまでなっている。