家族と別れ、一人沼津に疎開
そんなある日、父が、銀座の資生堂パーラーに連れて行ってくれました。もう、いつ店を閉じてしまうかもしれない。その前に一度、娘に洋食を経験させようと思ったのでしょう。
よそ行きの洋服。レースのついたソックスに革の靴。母にナイフとフォークの使い方を教えてもらって、父と2人。緊張しましたけど、嬉しかったですねえ。たった一度の思い出です。
戦争が進むにつれて、本土では毎日、空襲警報、警戒警報。大変な時代です。子どもたちの疎開が始まり、私は44年、10歳の時に、沼津の親戚へ縁故疎開をしました。
出発の時、母は私を抱きしめて何度も言いました。「かよちゃんは強い子よ。いつもニコニコしてなさいね。笑顔でいれば、みんなに好かれるし、友だちもいっぱいできるわよ」。
両親からは3日に1通は手紙がきました。父は「日本は神の国です。負けることはありません。それまでの辛抱です。寂しい時は、東京の空にむかって、『父ちゃん、父ちゃん、父ちゃん』と3回呼んでごらん」と書いてくれました。
その頃、学校では勉強なんかありません。貴重な食料になる芋づる奉仕ばっかり。芋のアクはコールタールに似ていて、手が真っ黒になるの。
あとは、薙刀の練習。そのうちそれもなくなって、竹やりになった。もし敵兵が上陸してきたら、高いところにある心臓をめがけて、渾身の力を込めて「突きー!」「突きー!」と突く練習。お腹はぺこぺこでしたけれど、それでも、日本は必ず勝つと信じていましたね。