「あんたが死んでくれればよかったのに」

そのあと、私たちは石川県の穴水というところに疎開することに。私はその頃、声が出なくなり、話ができなくなりました。

でも泣くだけ泣いた時、母の言葉を思い出して、「私、がんばる」って、決心したんです。穴水の人はみんな優しくて、家族が死んでしまってかわいそうやね、と、どこのうちでも「お芋を食べていきなさい」って。ここにずっといたいと思いました。本当に温かい人たちばかりでした。離れまいと思いました。

しかし、終戦を迎えると状況が一変。一番頼りにしていた叔母さんから、私の面倒を見られなくなったから、東京の大きいおばさんのところに行ってちょうだいと言われました。

東京のおばさん・おじさんの家は焼け野原の掘っ立て小屋。特におばさんからはつらく当たられました。「余計な子が来ちゃって、大事な人が逝っちゃってね」「あんたが死んでくれればよかったのに」……。

戦争は、人を変えてしまうんですね。それからは、自分で親戚を尋ね歩いたり、子守りをすれば置いてくれるという人のところへ行ったり、どうしても行くところがない時には、自分の家の焼け跡で野宿をして生きていました。

戦争で親を亡くした子どもたちは悲惨ですね。国は何もしてくれません。もう決して、あの時の私のような子どもはつくらないでほしい。

私はその後、父のお客様だった金馬師匠に奇跡的にめぐりあい、「よく生きていたねえ。苦労したんだねえ。今日からうちの子におなり」と、夢のようなご縁をいただき、亡くなった主人、林家三平と結婚することにもなりました。

戦争は、絶対にいけません。そう思って、私の体験した東京大空襲を語り継ぐために、上野公園に慰霊碑哀しみの東京大空襲建立、同時に上野公園・いこいの広場に平和の母子像「時忘れじの塔」を建立し、毎年、3月9日に、「時忘れじの集い」を続けています。生きている限り、世代を超えて、語り継いでいくつもりです。