撮影◎霜越春樹

瀬戸内 お母様の郁子さんは稀に見るチャーミングな人でしたよ。そして天然自然の文才がありました。本当は、小説が書きたかったのだと思う。井上さんの小説のなかに明らかに別の人が書いたとわかるものがあり、「これは奥さんが書いたね」と言ったことがあるんです。「そんなことない!」と怒っていました。「どうして書かせないの?」と聞いたら、「そんなの俺が困るじゃないか」って。

井上 私も、母が書いたと思っている作品が3つあります。ただ、寂聴さんは、父が母の名前では書かせなかったっておっしゃいましたが、私には母の本心がわからないのです。もし生きていても本当のことは言わないような気がします。実はとても気になっていることがあって……。父の死後22年もあったのに書かなかったのは、私のためだったのではないか、と。私がショックを受けるんじゃないかと心配して書かなかったのだったら、どうしようって。母が残した大きな謎の一つですね。

 

父は女性に守られていた

瀬戸内 郁子さんは井上さんの文学的才能を信じ、尊敬していたのでしょう。夫の嘘を全部わかったうえで、守ってあげていたのではないかしら。

井上 女性関係に限らず、何から何まで父の嘘は筋金入りでした。旅順生まれと言っていたけれど、本当は福岡の久留米生まれ。(笑)

瀬戸内 私は旅順を旅行したことがあったので、「旅順っていいとこね」と言うと、「え、あんた知ってるのか! どんなとこ?」って聞くの(笑)。嘘ついてると思った。

井上 父が死んだ後、叔母の話などから父の嘘がわかって、母に「わからなかったの?」って聞いたら、「いや、なんか変だと思ってた」って言っていました。(笑)

瀬戸内 井上さんの嘘に頭にきて、彼が過去につきあっていた女性に訊ねたことがあります、「どうしてあの人はあんなに嘘つきなのですか」って。すると、「井上さんから嘘を取ったら、小説家じゃなくなります」と。なんて立派な女性だろうと感心しました。そういう素敵な女性ともつきあっていたのよ。

井上 女の人を見る目はある(笑)。女性に守られていたのですね。父は職業作家となってからは私小説を書いていません。自分自身にも嘘をついて、頑なに誰にも真実を明かさないまま死んでしまった。生まれ育ちに対するコンプレックスや、文壇で味わった疎外感を絶対に明かさず、小説の中でさえ書くことを避けたのではないかと。最後までどこか孤独だったのだと思います。