西洋と日本の「性」に対する意識の違い

名詞に性別のある国では、最近になってジェンダー・ニュートラルといって、名詞の性別を廃止する動きが出ています。

しかし日本語にはもともと性別がないし、そもそもなぜ日本人は混浴を良しとしたのでしょうか。

1つには、性への意識がゆるいというのがあるでしょう。なにしろ日本は『古事記』『日本書紀』といった正史に、神々のセックスで国や国土が生まれたと堂々と記されるお国柄。性は良いもの大事なものという前提がある。子作り以外のセックスを罪悪視するキリスト教とは根本が違うところがあります。

西洋人は、日本で芸を披露しながら性も売る「ゲーコ」や「おいらん」の地位が高いことにも驚いています。

「日本のゲーコは、ほかの国の娼婦とはちがい、自分が堕落しているという意識を持っていない」(スエンソン前掲書)

「日本人は、他の国々では卑しく恥ずかしいものと考えている彼女らを、崇めさえしている」(『シュリーマン旅行記 清国・日本』)

といった具合です。

 

※本稿は、『ジェンダーレスの日本史――古典で知る驚きの性』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。

 


ジェンダーレスの日本史――古典で知る驚きの性』(著:大塚 ひかり/中公新書ラクレ)

肉体の性別とは違う性認識を持つことが尊重されるようになってきた。先進的に見えるが、じつは日本の古典文学には、男女の境があいまいな話が数多く存在する。男同士が恋愛仕立ての歌を詠み合ったり、経済力のある姫が一族を養う。太古の神話から平安文学、軍記もの、江戸川柳まで古典作品を通して伝統的な男らしさ・女らしさのウソを驚きをもって解き明かす。昔の日本の「性意識」がいかにあいまいだったか、それゆえに文芸が発展したかも見えてくる。年表作りを愛する著者による「ジェンダーレス年表」は弥生時代から現代までを網羅。