小泉家の茶の間。夜は寝室に、冬は掘りごたつも登場し来客をもてなした。壁の凹部には茶箪笥がはめ込まれ、上にはラジオが(撮影=大河内禎)

「戦後の庶民のくらし」の貴重な資料

この建物は、もともと私の家族が昭和26(1951)年から45年間暮らしていた住まいです。最初は両親と私たち姉妹4人の6人家族でしたが、長女の私に続いて妹たち2人が次々と家を離れ、それからは両親と次女がくらしていました。その後、父が亡くなり、寝たきりになった母が私の家に同居するようになり、次いで次女も亡くなって住む人がいなくなりました。

この家を設計したのは父です。父は建築技師として東京都に勤めていました。終戦後の住宅難を解消するための政府の住宅政策である住宅金融公庫の融資を受けて建てた、いわゆる公庫住宅。公庫の融資には広さや材料、工法にもいろいろと制限があったため、規模も小さく、いたって粗末な造りです。ただこの時期に建てられた木造住宅、特に「公庫住宅」はどんどん壊されてほとんど残っていません。また昔ながらのくらしを続けていた明治生まれの母が残した家財道具もありました。

昔ながらの掃除道具は今も現役(撮影=大河内禎)

これはある意味、「戦後の庶民のくらし」の貴重な資料ではないかと考えて、さして立派な家でも家財でもないのですが(笑)、博物館として残しておこうと決めたのです。それは私が、日本の家具や生活についての研究者だったという背景があるでしょう。私は本当は絵描きになりたかったのですが、絵で食べていくのは難しい。そこで知人が始めた家具設計事務所に就職しました。戦争で焼け野原になった日本では、まず住宅が建てられ、次に求められたのが家具。私が働き始めた昭和30年代は、どんな安っぽい家具でも、作れば売れた時代でした。

25歳のとき、設計事務所の経営者である知人と結婚しました。その後、工場も建て、私は「家具屋のおかみさん」として住み込みの職人さん5~6人の食事の面倒もみる生活を10年ほど続けたのです。その間に家具の歴史に興味を持ち、調べていくなかで、生活文化を研究する日本風俗史学会の人と知り合い、入会して学会誌に原稿を書くようになりました。明治100年記念に学会が出した『住宅近代史』の家具の項を書いたのが、一般に向けた最初の本です。