空き家となった実家を博物館に

35歳で離婚したのを機に、「家具の歴史を専門に研究する人はほかにいない、自分はこの分野の開拓者になろう」と思い立ちました。住宅の本の監修者だった建築史の先生に論文を見せたところ、「うちの研究室で続けてみれば」と言われ、東京大学工学部建築学科の研究生に。とはいえ自分一人の力で生活しないといけないし、妹を引き取ったりもしたので、自宅で絵の教室を開いたり下宿人を置いたりして、苦労しながら研究生活を続けました。

今も日本は女性研究者が少ないという問題を抱えていますが、私の世代で、特に建築の専門家は数が少なかった。文化庁の文化財保護審議委員に呼ばれたのも、「女性の研究者も入れておこう」という裏の事情があったんじゃないかと思うんですよ(笑)。審議委員になると、全国の文化財のうちどのようなものが国宝や文化財に選ばれるかという基準がわかってきます。たとえば住宅の場合、地方の名家の立派な建物は文化財として残る。でもその時どきの庶民がくらした「普通の家」も残す必要があるのではと、私は考えるようになりました。

また、建物を文化財として保存するときに以前から不満に思っていたのは、そこを中身がない「空き家」にしてしまうことでした。建築の専門家は建物にしか興味がないから、家具や調度は最小限にしてしまうことが多いのです。だけどそれでは、そこで生活していた人の息吹が感じられません。

ちょうどその頃、私はわが家の「空き家」をどうするかという問題に直面していました。貧乏で新しく物を買い替える余裕もなかったわが家には、ちゃぶ台や麻の蚊帳、便所の手洗い器まで、昭和のくらしがそのまま残っていました。横浜の農家に生まれ19歳で女中奉公に出た母は、根っからの働き者。炊事、洗濯、掃除、裁縫、小さな庭での畑仕事までを担い、そうした家事のこまごました道具もありました。そこで自分が館長になり、家を博物館として残す決心をしたというわけです。

昭和のくらし博物館の前に立つ小泉和子さん(撮影=大河内禎)

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