公教育の導入に反対した納税者たち
年間8週間くらいの授業で、たちまち読み書きができるようになるとか、四則計算ができるというようなことはなかったと思います。でも、それは副次的なことであって、一番大事なことは、家ではただの小さな労働者にすぎなかった子どもたちが、農繁期が終わって学校に行くと「戻って来てくれてありがとう。この春以来だね」と言って先生が歓待してくれる。
その時に子どもたちは自分が家族の中の一労働力である以外に、社会の一員として、幼い市民として認知され、期待されているということを実感する。そのことが公教育の最大の目的だったと思います。子どもたちに家以外に自分の居場所があるということを伝えるためなら、年間8週間でも構わなかった。
公費を投じて学校をつくり、子どもたちを無償で教育するという「公教育」のアイディア自体はコンドルセやルソーらが18世紀のフランスで言い始めたものですが、実際に行政が公教育を整備したのはアメリカでした。でも、公教育の導入時点では、学校教育に公費を投じることに猛烈な反対がありました。
教育を受けて、有用な知識や技能を身につけることは個人にとっては自己利益の増大につながる。そうであるなら「受益者負担」の原則に基づいて、学費は自分で支弁すべきである、とそう主張する人たちがいたのです。個人の自己利益の増大のために税金を投じるべきではない、と。
納税者は、自分たちは人一倍努力をしたことで税金を納めることができる身分になった。だから、自分の子どもたちは私立学校に通わせて高い教育を受けさせる。しかし、自分たちほど努力もせず、才能もなかったせいで貧乏でいる人々の子どもたちの教育になぜ私の税金を使うのか。学校教育というのは高額の商品である。それを購入できる人間だけが受けることができ、貧乏人はそれにアクセスすることができない。それがフェアネスというものだ、と。納税者たちはそう言い立てて、公教育の導入に反対したのでした。
おそらくこの言い分に今でもうっかり頷いてしまう人が日本にもたくさんいると思います。でも、それは間違いです。「教育は高額の商品である」という前提が間違っているからです。