「子どもを学校に受け入れる」
想像すればわかります。学校教育を受けることで人は自己利益を増大させるというのはたしかに事実です。学校でさまざまな知識や技能を身につけて、社会的上昇を果たし、しかるべき地位や収入を得るならば、その人はたしかに学校教育を経て自己利益の増大を果たした。
でも、「受益者負担」だと言って、学校教育には税金は投じない、学校に行きたい人間はそれなりの金額の授業料を稼げる身になってから通えばよいということにしていたら、それから後のアメリカはどうなっていたでしょうか。
子どもたちの多くは読み書きができず、四則計算もできず、歴史も地理も物理も化学も何も知らないまま大人になった。そしたら、アメリカは今も市民のほとんどが無学の「後進国」だったでしょう。
学校教育の受益者は子どもたち個人ではなく、社会そのものなのだということに気づいていた人たちのおかげでアメリカは今日の繁栄を達成したのです。19世紀の時点で「学校教育は商品だ。学校教育の受益者は子ども個人だ」という思考で停止していたら、今日のアメリカは存在しなかった。それくらいのことは教育史をひもとけば誰でもわかるはずのことです。
学校教育で一番大切なことは何かという話をしているところでした。もう一度繰り返しますけれど、それは「子どもを学校に受け入れる」ということです。子どもたちを歓待し、承認し、祝福することです。自余のことはすべて副次的です。
学校は店舗であり、教科は商品であり、子どもたちは消費者だという市場経済のメタファーで教育を語る人間がたくさんいます。今の日本ではその人たちのほうが多数派かもしれません。
でも、はっきり言いますけれど、その人たちは間違っています。そんな人たちの言うことを聞いて教育制度を設計したら、遠からず子どもたちはみな不幸になり、日本は後進国に転落する。不登校20万人という数字そのものが、このような教育思想の誤りを証し立てていると僕は思います。
※本稿は、『君たちのための自由論――ゲリラ的な学びのすすめ』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
『君たちのための自由論――ゲリラ的な学びのすすめ』(著:内田 樹、ウスビ・サコ/中公新書ラクレ)
かたや哲学者であり武道家、かたやアフリカ・マリ出身の元大学学長。2人の個性派教育者による、自由すぎるアドバイスとメッセージ。曰く、「管理から逃れて創造的であるために、もっと“だらだら”しよう」「“ゲリラ的”な仕掛けで、異質なもの同士の化学反応を生み出そう」「将来は“なんとなく”決めるべし」「世の中に“なんでやねん!”とツッコミを入れよ」。若い人たちが「大化け」するための秘訣を、コロナ禍の教育現場から発信。