人は忘れるから生きていける

父は若い頃から外で働いて稼ぐだけで、生活のすべては母任せ。掃除洗濯ができないのはもちろん、自分の服がどこにあるのかも、飲むべき薬もわからない。食事は座って待っていればいい。

そうしたいわゆる家父長制における長年の生活習慣が「何もできない」状態を招いたとすれば、父はアルツハイマー型認知症というよりも「家父長制型認知症」といえるのではないか。同時に、妻に頼り切りの自分も同じようなものじゃないかとも思いました。認知症って一体何なんだ?と。

一方で、父が何度も同じ話を繰り返したり、一日中探し物をしたりするのにつきあわされ、自分の仕事に手をつけられなくなっていきました。苛立ちのあまり声を荒らげては自己嫌悪することも。

そんな時、妻に「お父さんの言ったことをメモしてないの?」と聞かれたのです。そうか、仕事で続けてきたインタビューのスタイルで接すれば、父と適度な距離が取れるかもしれない。実際、ノートに向かうようになってから私の苛立ちは収まり、父も気楽に話せるようでした。

さらに書き留めた言葉を吟味するうちに、「わけのわからない」父の言葉が、哲学の存在論や認識論を通して考えるとすんなり理解できることに気がつき、私はあらゆる哲学書を読み漁りました。

たとえばドイツの哲学者ニーチェの、すべてのものは永遠に繰り返すという「永遠回帰」の思想は、子ども時代の思い出話ばかり繰り返す父自身の宣言のようです。

また、ニーチェは、「忘れるということは、なんとよいことだろう」とも言っています。人は忘れるから生きていける。認知症は、苦悩から解放された理想の境涯かもしれないのです。