父をめぐるライバル関係

わだかまりがあった、と聞くと、始終揉めている姿を想像する方がいるかもしれませんが、私は最後まで母と揉めたことはなかったですね。むしろ母娘で大喧嘩になった、という友人の話を聞いて羨ましいなと思っていました。多くの場合、言いたいことが言い合えるのは信頼関係があるから。あるいは甘えることのできる関係性だからではないでしょうか。

母は、私が学校でいい成績を取ったりすると「さすがお母ちゃんの娘や」と褒めてくれました。逆に何かヘマをすると「いったい誰の子や」と突き放す。言葉より先に手が飛んでくることも珍しくありませんでした。私はそんな母を、かなり早い段階から「自己中心的な人」と醒めた目で見ていました。精神的には私が親で、母は手に負えない子どもなのだと捉えるようにしていたんですね。

それでいて、母が怖かった。般若のような形相で睨まれただけで、オシッコを漏らしてしまうほど。本人はしつけのつもりだったかもしれませんが、調教に近いんですよ。私が最後まで母に逆らえなかったのは、ある種、洗脳されていたからなのだと思います。

何でも自分の思い通りにする母は、私にとって決して抵抗できない神のような存在でしたが、すでに大人の次兄は「ああいう人だからしょうがない」と流せてしまうところがありました。父にしても母の激しい気性については早々に諦めて折り合いをつけているように見えましたね。

一方で母は、忌憚(きたん)のない物言いによって座の主役になる人でもありました。私の学校でも全校生徒に知られているような華やかな存在で。子どもたちが面白がるからと、わざと学校のロビーでラジオ体操をしてみせたり、まわりを楽しませる天性の才能があった。

「ハレ」の日だけ母といられたら、私も面白がれたんでしょうね、きっと。でも「ケ」の日もある日常で、思うようにならないことがあると悲劇の主人公と化す劇場型の母と向き合うのはあまりにもしんどかった。そのうえ母にとって同性の私はライバルでもあったのですから。

中学生の私は、よく父と腕を組んで歩いていました。母は、その後ろから「いやらしぃ。変な関係に見えるわ」などと言いながらついてくるのが常でした。当時はなぜそんなことを言うのか、よく理解できていなかった。でも今になれば、母が一人の女としての感情を、いちいち吐露していたのだとわかります。父が大好きなのに、父の心がよそを向いていると知っていた母は、言動とは裏腹に愛されたくてたまらなかったのでしょう。

私がある文芸賞を受賞したときも、すでに認知症の進んでいた母はいかに自分が作文がうまかったかを聞かせ、「あんたが賞を取ったからって私に得があるわけじゃなし。バス代を使って授賞式に行くだけ損や」と。この小さなガッカリ感の積み重ねは、ボケる前の母に対する嫌悪感や憎悪感とも一緒になって後々までずっと繋がっています。