撮影:本社写真部
2019年4月に91歳で他界した母は、物事の善悪や好き嫌いまで支配する人で、村山由佳さんは長くわだかまりを抱えてきた。今、その死をどのように受け止めているのだろうか。(取材・文=丸山あかね 撮影=本社写真部)

よい家族を演じようとする強引さ

母が死んだら泣けるのだろうか、きっと冷淡な自分と向き合うことになるに違いない、というのは、長らく私の悩みの種でした。

亡くなるまでの1週間は、母が入所している介護施設近くの実家に滞在したので、食事の介助をしたり、カルピスを飲ませたりはできました。実際のところ、火葬場で最後のお別れをするときでさえ、さっぱり「いっといで」という感じ。「お母ちゃん、きれいなお顔だね。楽に逝けてよかったやん」と穏やかな心で見送りました。だからといって、「母を赦すことができました」ときれいな話にまとめる気には、到底なれませんけれど。

母は70代の半ばから少しずつ認知症が始まり、4年ほど前から介護施設に入所していました。それまで自宅で老老介護をしていた父は、2年前の4月3日に突然逝ってしまい、あのときはずいぶん泣いて悔やんだものです。いずれにせよ、これから春を迎えるたびに、私は自分にとって家族とは何だったのかを考えることになるのでしょう。

私には13歳離れた兄と、10歳離れた兄がいますが、小学生の頃、すでに社会人になっていた長兄は両親と縁を切り、ついに修復できないままになってしまいました。ある日、母と揉めたときに父から咎(とが)められたことを、勘当されたと受け止めたようです。

それでもきょうだい間では連絡を取り合っていましたが、感覚の相違があって、次兄が「俺、兄貴のことは諦める」と言い出したのは、私が大学生になった頃だったでしょうか。ほどなくして、私も長兄と断絶してしまいました。

形の上でいえば、うちは残念な家族。でも、別に何も困らないのですよ(笑)。長兄は長兄で別のところで家庭を持って、幸せにやっているわけで。もちろん父が亡くなったときも、母が亡くなったときも、次兄が電話で報告はしています。大切なのは、それぞれに自分の人生をちゃんと生きているということ。家族というだけで、気の合わない者同士が無理やり一緒に暮らすことはないと思います。

ただ親の保護下にあるうちは、どうにもならないですよね。私は早くから母との関係性に悩んでいましたが、次兄が就職して実家を出たあとは取り残されてしまい……。父の女性関係がもとで、もっともエキセントリックだった頃の母に、高校生だった私は一人で対峙しなければならない時期が続きました。

もとより、わが家は穏やかな家庭ではなかった。家の中に、決して怒らせてはいけない母というシャーマンがいたので、常に家族がピリピリしていて寛げない環境でした。

でももしかすると、「父の座る席に子どもは座ってはいけない」「新聞を一番先に読むのも父だ」と厳しかった母こそが、もっとも強く理想的な家族像を望んでいたのかもしれませんね。よい家族を演じようとする強引さが、支配力の源だったのではないかとも思います。