嫡男・義信を切腹させてまで進めた駿河侵攻
義元が桶狭間で討たれ、領国内が安定を失っていることを察知した信玄は、今川との手切れを考え始めました。それは桶狭間のわずか3年後、永禄6年(1563年)のことといわれています。
信玄にとって誤算だったのは、嫡男の義信が同盟の維持を主張し、父に反する態度を明確にしたことでした。
義信の妻は先述したように氏真の妹です。夫婦仲は良かったようですが、妻かわいさのためだけに義信が父に逆らったとは思えません。三国同盟の維持こそが武田領の安定をもたらす、と義信は考えていたのでしょう。
武田がてこいれして今川を建て直す。その上で日の出の勢いの織田と対峙する。
そうした戦略は間違っていないように思えます。
ただ、信玄はその路線は採らなかった。結局、意見を枉げなかった義信を切腹させてまで駿河への侵攻を開始しました。永禄11年(1568年)のことです。