空飛ぶナスの天ぷら

出張など特別なことがない限り、私は父の家で夕食を作って一緒に食べるようにしている。ある日、父はデイケアサービスから戻ると、夜は外食をしたいと言い出した。私は料理の手を止めて、父に確認した。

「じゃあ、今日の夕食の材料は明日に回すよ。何を食べに行きたいの?」

父は笑顔で言った。

「今日は、そばを食べに行きたい」

義妹を誘って3人で、40年位前から父が通っている馴染のそば屋に行くことにした。運転をしながら私は、父に話しかけた。

「何を食べるの?」

「もりそばと天丼のセットにする。今日は、デイケアに行っていて、米を一粒も食べていないんだ」

「え? お昼にお米を食べたでしょ?」

デイケア施設から昼食のメニュー表を渡されているため、私も義妹も父が何を食べたか知っている。今日は「春のちらし御膳」と書いてあった。後部座席に座っている義妹が父に言った。

「お義父さん、お昼はちらし寿司だったから、お米は食べていると思いますよ」

認知症に認定される前の父は、自分が言っていることを否定されると、すぐに怒り出したものだが、にっこりして返事をした。

「あ、そうだったかな。昔のことは忘れた」

「パパ、6時間前は、昔のことなの?」

「当たり前だ。今より前のことは、すべて昔だ」

体調が良い時の父は、このように口が立ち、認知症の症状の一つの「とりつくろい反応」も絶好調だ。もはや習い性になっているのか、なかなか洒落が効いている。父のように、忘れてしまっていることを覚えているかのように言ったり、振る舞ったりするこの反応が現れる人は、かなり多いらしい。でも、ここまで楽しくとりつくろってくれたら、拍手を送りたいほどだ。 

ほどなく「もりそばと天丼のセット」がくると、父は箸をつける前に、天丼の上に乗っているナスの天ぷらをつまみ上げ、義妹の皿の上に、ひょいと飛ばした。私は恥ずかしくなって父に注意した。

「空飛ぶ天ぷら! 行儀悪いことしないで。食べ物だから、今度からそっと渡してちょうだい」

外に出ると別人のように背筋を伸ばして歩く(写真提供◎森さん)