自立していると思われたい父の願望
2021年の冬に、当時93歳の父は車で近所に買い物に行った後、自宅の車庫入れに失敗し、車が廃車になるほどの自損事故を起こした。事故のショックが引き金となって、急に「今のことを記憶できない」症状が強く出て、父は認知症に認定された。
何度言っても運転をやめなかった父が、人身事故を起こすことなく車を廃車にして、運転をやめられたことに、私もほかの家族もほっとしたものだ。
認知症だとわかってから、父に逆らわないように心がけていると、日ごとに父の反抗が収まってきた。毎日接していると、父が心の中で、自身の老いによる衰えを受け入れられずに葛藤しているのがよくわかる。
男性の平均寿命より10年以上長く生きているのだから、いろいろな能力が落ちてくるのは当然なのに、父はそう思えないようだった。例えば、入浴時に浴槽から立ち上がる際の転倒を避けるため、手すりを取り付けようと提案すると、父は「考えておく」と答えた。
数週間かけて父の同意を得て、業者に設置してもらった。苦労して付けた手すりだけに、最初の入浴後についつい私は訊ねてしまった。
「手すりがあると、立ち上がる時に楽でしょ?」
「いや、使わなかったからわからない。俺は足が丈夫だから」
こんな風に言い返されるたび「意地を張らなければいいのに」と思うが、父自身、何ができて何ができないのかが、わからなくなっているのかもしれない。
たぶん父は、完全に自立した男として人生を全うしたいのだろう。父の理想は、人の世話にならず、生活補助具を使用せず、最後まですべてを自分の力だけでやり遂げ、生き抜くことなのだ。だから、いくら私が面倒を見ても、お礼を言ってくれたことはない。
ところが、最近頻繁に、父が私に「ありがとう」と言うようになった。私はほぼ毎日夕方から父の家に行って、通いで家事や食事の支度をしているのだが、洗濯物を父のタンスにしまっていると、父が優しい声で言った。
「ありがとう。いつも、すまないな」
穏やかになってきた父だが、「誰にも世話になっていない自分」を演じることもある。
いつも通り夕方父の家に到着し、玄関のベルを鳴らした。足が弱ってきた父にちょっとでも室内を歩かせたくて、私は合い鍵を使って中に入ることはせず、ドアの前で父が開錠してくれるのを待っていた。
父は耳に携帯電話を当てて、誰かとしゃべりながら玄関に来た。相手の人が、誰が来たかを訊ねているらしく、父は答えている。
「宅配便が来ただけだ。もう帰ったので、気にしないでいいから」
私を一瞥すると、父は自分の寝室に入り、楽しそうに電話を続けた。いつも娘が世話をしに来ているとは、口が裂けても言いたくないのだろう。
父の電話の相手は大抵、会社の後輩か、元気でゴルフをしていた時の年下の知人だ。いつまでも格好良い「先輩」でいたいのはわからなくもない。デイケアに行っていることも、その人たちには話していないようだ。
設備が整い、職員の方々も優しいデイケア施設に父は行っている。そのせいか、デイケアのことを「スポーツジム」だと思い込んでいるようにも見える。
「ジムなのに、お風呂で背中を流してくれる、親切な人がいるんだ」
父はその日、携帯電話のスピーカー機能をオンにしてしゃべっていたため、相手の方の声も全部聞こえた。
「背中も流してくれるなら、私も行きたいから、どこのジムか教えてもらえませんか」
「いや、あなたの家からは遠いから、迎えに来てくれないはずだ。自分で近くの親切なジムを探してみなさい」
老人同士の会話って、なかなか興味深い。