(写真提供:Photo AC)
2023年4月17日の『徹子の部屋』に内田也哉子さんが出演。母・樹木希林さんが余命宣告を受けた後の様子や、亡くなる3日前に家に帰ると宣言、家族に見守られ息を引き取った最期を語ります。そんな也哉子さんが、幼い頃からの家族の思い出とこれからのことを語った『婦人公論』2019年10月8日号の記事を再配信します。

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2018年、9月15日。俳優の樹木希林さんが亡くなりました。告別式では、父・内田裕也さんに代わって一人娘の内田也哉子さんが挨拶をしましたが、その真摯な言葉が印象に残っているという人も多いのでは。それから半年後には、内田裕也さんも他界。両親を相次いで見送り、今思うことは──(構成=篠藤ゆり)

バトンを受け継ぐ

19歳で結婚し、21歳の時に長男の雅樂(うた)を出産しました。今、彼が21歳、長女の伽羅(きゃら)が20歳。彼らを見ていると、私って一体何を考えていたのだろうと思います。(笑)

正直に言えばもっと青春を謳歌したかったという思いもあり、後に次男の玄莵(げんと)が生まれるまでは、文章を書いて本を出したり、音楽活動をしたりすることが救いでした。でもどれも発展途上のままで、後ろめたい気持ちもあって。

昨年9月に母・樹木希林を、そして今年3月に父・内田裕也を見送りましたが、両親から渡されたバトンをきちんと受け継がなくてはと、あらためて感じています。

母はかつて、「早めに結婚して、家庭を耕して、40代から自分の好きなことをすればいいじゃない」と言ってくれました。今、私にできることは何なのか、考えることが私の宿題だと思っています。

 

やらねばならぬことに向かう日々

もう一周忌なんですね……。母が亡くなってからの1年間は、本当にめまぐるしかったです。亡くなった直後から、さまざまな事務処理など、目の前のことをこなすのに精いっぱい。通夜・葬儀の当日も対応に追われて、最後に心を落ち着けて母の顔をちゃんと見ることができなかったのが心残りです。

母は生前、芸能事務所に属さず自分でマネージメントを行っていたので、メディア関係の方からの電話が自宅に頻繁にかかってきました。母の人生はここまで多くの人に興味を持っていただけるものだったのかと、本当にありがたく思います。

一方で、母の死と静かに向き合うことがまったくできなくて。母という大きな存在が、急にポカンとこの世から消えてしまったという現実に対応できない心を、ちょっと脇に置いておいて、ひたすらやらねばならぬことに向かう日々でした。

父の内田裕也は、母の不調と同じ頃から入退院の繰り返し。長年の不摂生や肉体の酷使のせいで、体調がここ数年、相当悪かったのです。だから私としては、父のほうが先に逝くのではないかと思っていました。そのほうが母も納得するだろうし、ある意味で理想的な内田家のあり方だと思っていたのです。でもやはり思い通りにはいかないものですね。

私が生まれる前に両親が別居したため、父とは年に1回か2回会う程度。会う時は常に怒っているか酔っ払っているか、誰かを論破しようとしているかなので(笑)、とにかく「怖い」というイメージが固定されていました。

普通の父と娘の関係ではなかったし、私は一度も父に面倒をみてもらったことがありません。それなのに、急に父の介護をどうするべきか権限をあたえられることに対して、俯瞰で見ている自分がいて。その父も3月に亡くなり、いろいろなことがいっぺんに押し寄せてきたため、どう消化していいかわからず、苦しくなったんです。

その結果、身体を壊してしまい──、今年の6月頃、次男を連れて逃げるようにして自宅のあるロンドンに戻り、2ヵ月ほどすごしました。

環境を変えると、物事は違って見えてくるものですね。さまざまな国籍の人が、それぞれの生活を色とりどりに織りなす場所にいると、ほっとした、というか。自分が置かれている状況や、もがいている心のさまは、ほんの一色にすぎないと思えるようになりました。

以前ここに母が来た時、このベッドで寝ていたなとか、初めて日常の中の母を感じることができた。そうするうち、たまっていた感情が少しずつ整理されていきました。

半年の差で母と父を失った衝撃は大きかったですが、もし父の介護が長引けば、もっと困難があったかもしれません。入院中に父は「孤独との闘いだな」と呟いていましたし。そう思うと、父は最期にようやく「子孝行」をしてくれた気もします。その潔さに感謝しています。