【1948/昭和23年】
「『斜陽』の子を抱きて」太田静子

「『斜陽』の子を抱きて」太田静子
入社3年目の三枝さんは連載小説の依頼のため、太宰治が入水自殺した翌朝も仕事場を訪れていた。翌月、本誌は愛人・太田静子さんの手記を掲載。スクープとしてその号は発売1時間で売り切れた。

これは太田さん死去の折、三枝さんが本誌に寄せた追悼文である。

六月十四日の朝、私は《いつものように》荻窪の自宅を出て、会社に行く前に三鷹の太宰氏のところへ向かった。その頃太宰氏は、駅の近くにある千草という呑み屋の二階を仕事部屋としておられた。(中略)

店をのぞくと、顔見知りの千草のおかみさんが目を真っ赤にして現われた。そしてひと言、「太宰先生が昨夜から行くえ不明なんです」と言ったのだった。(中略)

葬儀が行われた翌日、私は編集長に呼ばれて、これからすぐに神奈川県足柄下郡の下曽我まで行ってほしいと命令された。そこには太宰氏の愛人で『斜陽』のモデルである太田静子さんが、太宰氏との間に生まれた女の子と住んでおられる。(中略)太宰氏とのことを書いてもらうように、とのことであった。(中略)

一人の男性を愛し、何の疑いも抱かないでその人に身をゆだね、愛する人との一週間にすべてをかけた女性。(中略)私は静子さんの心境に驚き、感動し、想像以上にすばらしい手記を得たことに興奮していた。持ち帰った原稿を頁数の関係で数行カットしなければいけないと言う編集長に、顔色を変えて抗議し、「切らないでほしい」と泣きながら懇願した。(中略)

静子さんはひたすらつつましく生きて、そして静かに消えて行った。未婚の母などという言葉もまだ生まれていなかった時代に、未婚の母というきびしい道を選んだその生涯は、相手が著名な作家であっただけに、いっそう試練の多いものであったと思う。

(『婦人公論』83年2月号)