それに、天気を気にせずに暮らしている人はいませんよね。誰もが天気予報を見て、「今日は洗濯できるだろうか」「どんな服を着て出かければいいかな」などと考えますし、運動会や家族の行事も天気次第。人は天気に翻弄されて生きているのだ、ということも発想の原点にあったのです。
でもそれは素朴な入口という感じで、いよいよ本格的に次作について考えようという段階になったときに、僕が天気に対して抱いていたのはシリアスな問題との関連性についてでした。周知のように環境問題が深刻化しています。日本でも地球温暖化の影響で四季が失われつつあったり、ゲリラ豪雨と呼ばれる局地的大雨に見舞われたり……。
気候変動は人間が自然を破壊して便利さを優先してきたことの代償だと言われているし、僕もそう思います。といっても僕自身、部屋が蒸してきたら迷わずエアコンをつけるような暮らしをしてしまっています。気候変動はあまりにも大きな現象過ぎて、個々人でできることはほとんどありません。それでも、僕たち一人ひとりの生活が確かに影響をおよぼしているのです。他人事のようであって、決して他人事ではない。エンターテインメントの枠組みでそのような問題をどう扱えるだろうということを考えながら制作を続けていきました。
議論のテーマを投げかけることが自分の役割
物語を作っていくうえで大きな力となったのは、『君の名は。』を観てくださった方々から寄せられた数多くの感想でした。「感動しました」といった賛辞に励みをいただいたのは言うまでもありません。でも、厳しい批判のほうが僕に新しい物語の方向を教えてくれたような気がします。
たとえば、「『君の名は。』という映画は災害をなかったことにしている」というものがありました。僕は「未来は変えられる」というメッセージを込めて作ったつもりだった。それと、「大切な人に生きていてほしかった」という願いそのものを描こうと制作に取り組みましたが、「代償もなしに人を生き返らせた映画だ」という受け止め方をされたりもしました。
どんな作品も何らかの価値観を提示しています。そうである以上、僕の価値観に賛同してくれる人もいれば、相容れないという人もいるとはわかっていました。とはいえ、『君の名は。』を観て傷ついたという人、理解できないという人、作り手である僕のことを嫌いだという人を目の当たりにして、大勢の人に観ていただくことの重さを痛感したというのが正直なところです。大切なことを学んだと思っていますが、問題は前作で批判的だった人に今度こそ納得していただける作品を目指すべきなのか否か、ということでした。
結果的に僕は、前作で怒らせてしまった人をもっと怒らせてしまうような作品を作ろうという方向性を打ち出しました。『天気の子』は帆高や陽菜が運命に翻弄されながらも、それぞれの生き方を自分で選択していく物語ですが、彼らの選択に釈然としないといった感想を抱く人もいることでしょう。でもそれでいい。議論のテーマを投げかけることが自分の役割なのではないかと思い至ったのです。正解のない物語を作るという軸を据えることができた。これこそが、『君の名は。』という作品から僕がもらった最大のギフトだと確信しています。