三方ヶ原で完勝した武田軍が撤退したのはなぜか
ではドラマで触れられていた、信長との決戦・征伐という意図は……
なかったのではないでしょうか。浜松城には依然として家康指揮下の8000の兵がいる。そう簡単に西へは行けないでしょう。
浜松城を牽制しながら、吉田(豊橋)城を落として浜松と岡崎を分断、家康との完全決着を狙う。それが目的だったと思います。
三方ヶ原で完勝した後も、武田勢は遠江と三河の国境付近でうろうろしていた。それは決して、信玄の病状が悪化したことだけが理由ではない。家康を降し、岡崎を攻略して三河も手に入れる。もちろんその過程で信長が出てくるなら、一戦は辞さない。
そんなつもりでいたのだけれど、信玄の病の進行が予想を越えて早かった。
本当なら指揮権を勝頼が引き継いで作戦を継続するべきだったのでしょうが、それがムリだったので、武田勢はやむなく退却した。このあたりが真相ではないでしょうか。
こうした流れからすると、よく伝え聞く信玄の遺言「我が死は三年の間、秘密にせよ」も事実ではなかったのでは、とぼくは考えています。
『「将軍」の日本史』(著:本郷和人/中公新書ラクレ)
幕府のトップとして武士を率いる「将軍」。源頼朝や徳川家康のように権威・権力を兼ね備え、強力なリーダーシップを発揮した大物だけではない。この国には、くじ引きで選ばれた将軍、子どもが50人いた「オットセイ将軍」、何もしなかったひ弱な将軍もいたのだ。そもそも将軍は誰が決めるのか、何をするのか。おなじみ本郷教授が、時代ごとに区分けされがちなアカデミズムの壁を乗り越えて日本の権力構造の謎に挑む、オドロキの将軍論。