キジバトの都市進出

キジバトは、「デデーポポー」と鳴き、ヤマバトとも呼ばれている。今日では最も身近な都市鳥の一種であり、人との関係は時代と共に変化してきた。

江戸が東京に変わった明治初期、東京市中ではキジバトが至るところに生息し、人への警戒心は低かった(岡田泰明・高木緩子 1986「明治初期の東京の鳥C. A. M'Veanの報告(1877)から」『応用鳥学集報』6(1): 17-23)。

江戸時代は、将軍や大名の鷹狩りのために鳥獣保護が徹底しており、明治初期にはまだ鳥たちは人を恐れなかったようである。

やがて銃の規制が撤廃され庶民が狩猟をするようになった。また、戦中戦後の食料難の時代には、野鳥は食用として空気銃やかすみ網によって捕獲された。多くの野鳥が人から遠ざかり街中から姿を消していった。

1955年ころまで、東京都心ではキジバトは繁殖していなかった。23区内に進出して話題になったのは1960年ころの杉並区であった。1970年代には渋谷区や新宿区で、1978年には墨田区で繁殖が確認された。

筆者の勤務先(都立両国高校・墨田区)で繁殖したキジバト(1978年5月13日)(写真・唐沢孝一)

戦中戦後に都心から姿を消したキジバトが再び戻ってきた。その背景には、戦後の食料難から解放されたこと、空気銃やカスミ網などの使用や所有が規制されたこと、日本野鳥の会や日本鳥類保護連盟などによる野鳥保護思想の普及などが影響したと考えられる。「野の鳥は野で観察する」というバードウォッチングが普及した成果でもあろう。

こうした世相の変化に呼応するように、キジバトは人とのフライトディスタンスを縮め、都市に戻ってきたのである。