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日本の音楽シーンの黄金期と呼ばれる1970~80年代に、スーパースターとして君臨し続けた沢田研二。「ザ・タイガース」でグループサウンズの最前線で活躍した後、1971年にソロデビュー。日本歌謡大賞などを受賞し、数々の記録を打ち立てた。今年の6月25日に75歳を迎え、同日にさいたまスーパーアリーナで『まだまだ一生懸命』ツアーファイナル・バースデーライブを行うなど、半世紀にわたって歌手・俳優として人々を魅了し続けるジュリーが歩んだ日々の裏側に迫る。彼がスーパースターとして駆け上がっていく道のりで、献身的に併走した盟友・加瀬邦彦との関係とは――。

敷かれたレールの上で全力を尽くすジュリー

沢田は、子どもの頃から寡黙で人見知り、内向的な性格だったという。ファニーズ時代も、地元の幼なじみだった他の4人の中に最後に入ったという遠慮もあってほとんど喋らず、みんなが麻雀をしている時も1人外れてお茶をいれていた。

それで淋しくもなく、退屈もしないのだ。彼がさまざまなインタビューで語ったのは、「仕事だから頑張る」「まな板の鯉でいるほうがいい」ということだった。

〈ぼくは理屈をこねるよりも、与えられた状況のなかでやっていくほうが好きですから〉(「週刊朝日」91年5月24日号)

88年の渡辺淳一との対談では、この世界に入ったのは高校生の時で、きっかけは「おまえ、男前やないか」と女性客を引き寄せるための客寄せパンダとしてバンドボーイにしてもらったことだと、語っている。親友の姉のボーイフレンドが、沢田がはじめてステージに立った京都のダンス喫茶「田園」のバンドマスターだったのだ。

〈どうせヘタなんやから寝転がって歌えとか、いろんなことをいわれた。そういう熱演をすることで自分のヘタさを補え、ということを教えられたりもしましたね〉(「月刊現代」88年12月号)

敷かれたレールの上で全力を尽くすスタイルは本来の性格に加えて、ここが原点ではないか。だからこそ過激に走れたのだ。そんな沢田をソロになってからプロデュースし、スーパースターへと駆け上っていく道程を伴走した盟友が加瀬邦彦だった。