ザ・タイガース解散のとき

1968年7月にリリースされた安井かずみ作詞/加瀬邦彦作曲の「シー・シー・シー」は、ザ・タイガース6曲目のシングルで、レコードには加瀬の声も入っている。この頃にはタイガース人気は最高潮に達し、ザ・テンプターズ、オックスなど300以上のGSが生まれた。

1978年時の沢田研二(1978年9月撮影、本社写真部)

ザ・モップスやザ・ゴールデン・カップスなど音楽的評価の高いグループもあったが、タイガース以降に売り出されたGSの多くはルックスやパフォーマンス重視で、長髪にユニセックスなコスチュームとスタイルも曲調も、タイガースの模倣の域を出なかった。

全共闘運動の広がりの中でメッセージ性の強いフォークソングが台頭し、69年にアメリカでロックフェスティバル「ウッドストック」が開かれると、GSは急速に勢いを失っていく。ブームは3年で終わった。

71年1月タイガース解散後、タイガースから沢田と岸部修三、スパイダースから井上堯之と大野克夫、テンプターズから萩原健一と大口広司という六人のメンバーで結成されたPYGが渡辺プロダクションからデビューする。

後に、タイガース解散に何の発言権もなかったと話した沢田は、この時、加瀬に相談に行ったという。加瀬を取材した時の証言から(以下、加瀬の「 」の言葉はその時のもの)。

「俺は絶対うまくいくわけがないと思うけど、やることがないんだから、とりあえずやってみたらいいって、そう言ったの。今までと感覚も変わるし、考え方も変わると思うよって。でも、僕は絶対すぐにダメになると思ったから、やめた後に僕が彼のプロデューサーをしようと思ってたの」

加瀬の予想通り、大手プロダクションに所属してニューロックを目指したPYGはロックファンから商業主義と反発され、ブーイングの嵐で実質一年もたなかった。加瀬の出番だった。日本の音楽シーンをポップなものにしていくはずのGSが歌謡曲みたいになってしまったのが不満で、沢田で巻き返したいと考えた加瀬には構想があった。

「僕は、GSの頃からジュリーは絶対、将来ソロでいくと思ってたよね。でも日本のロックとか、そこに行く人間じゃないと思ったわけ。やっぱり歌謡界で、ポップで、それでステージではロックっぽいものをやる、今までにない歌謡界の歌手にしようと思った。そのためには衣裳も普通のスーツやタキシードでは面白くないから、イラストレーターだった早川タケジに『服やんない?』って声かけたの」