ソロになった沢田

加瀬には、海の向こうにモデルとしたいスターがいたのだ。タイガースと前後するようにワイルドワンズが解散した後、安井とかまやつと三人でロンドンに出かけ、ロッド・スチュワートのライブを観て、レコーディングにもぐり込んだ。

〈ロッドはセンスがよくて、ステージもお洒落だった。ああ、ジュリーもこんな風に危なくカッコよくしたいなぁと思ったよね。化粧をしたり、ビジュアル面でも、次のシングルではどんな格好をするんだろうと期待される存在にしたかった。それはジュリーにしかできないことだった〉(同前)

当時、欧米で地位が上がっていたプロデューサーという仕事は、日本ではまだ職業として認知されていなかった。加瀬は自ら申し出て渡辺プロの契約社員となり、沢田のために曲を書き、共に走っていく。

ソロになった沢田は、73年、安井かずみ作詞/加瀬邦彦作曲「危険なふたり」で日本歌謡大賞を受賞し、念願の「一等賞」を手にした。受賞した瞬間、沢田は涙を流し、海外にいた加瀬に歓びを伝えている。

その後、「胸いっぱいの悲しみ」「恋は邪魔もの」「追憶」と安井&加瀬作品が、阿久悠&大野克夫作品の「時の過ぎゆくままに」が登場するまで続いて、ポップスター・ジュリーの地位を揺るぎないものにした。

「彼はそれだけの素質はあるし、真面目だし、何しろ与えられた仕事は全力投球する。僕が『こういうのを着てくれ』とか『落下傘背負ってこんな感じで』と言うでしょ。普通なら『えー、そこまでやるんですか』となるけれど、彼はいっさい文句言わなかった。与えられたものに対して期待以上のことをやってくれるから、こちらもよし次はもっと面白いことをやろうと意欲が湧いてくるわけ」