仁徳天皇の崩御が4世紀末とすると、時期にずれが

教科書に載っていた古墳の造形に、古代のロマンを感じた方もいるでしょう。一番有名だったこの陵墓、かつては「仁徳天皇陵」と習ったと思います。

上空から見たところ(写真提供:Photo AC)

その後研究が進み、被葬者は第16代仁徳天皇とされていますが、真実かどうかはわかりません。そのため昨今の教科書では、地名をとって「大仙陵(だいせんりょう)(大山/だいせん)古墳(伝仁徳陵)」などと記載されています。

なぜ「伝」なのか。一つには、仁徳天皇がいつ生まれ、いつ亡くなったかもわからないからです。研究者の間でも意見が分かれますが、おそらく4世紀末に亡くなったという説が有力です。

現在陵墓とされている古墳の大半は、学者が江戸時代から明治時代にかけて、史料や地元の伝承、実地踏査などをもとに被葬者を確定しました。それをそのまま戦前の宮内省が受け入れ、現在の宮内庁も踏襲しています。

発掘調査を行えば、さまざまな史実が明らかになると思われますが、宮内庁は陵墓内への立ち入り調査を認めてきませんでした。「御霊の安寧と静謐を守る必要がある」というのが、その理由です。

ところが2018年、宮内庁と堺市が共同で大仙陵(伝仁徳陵)の一部を発掘調査することが発表されました。2020年には、円筒埴輪が多数埋められていることや、墳墓の構造の一部が明らかになったと報告されています。

また、今回出土した埴輪は、5世紀前半の特徴を備えていることもわかりました。つまり仁徳天皇の崩御が4世紀末とすると、時期にずれが生じるわけです。

 

《さらに詳しく》

この古墳には複数の被葬者が葬られていることがわかっています。前方後円墳の「前方」と「後円」の両方に、遺体を安置する石室があるのです。

つまり伝仁徳陵は、仁徳天皇本人を埋葬したかどうかが定かではなく、たとえ本人が葬られていたとしても、どちらの石室に眠っているかわからないのです。