そして3年生になると出席日数が足りず内部進学できないことがわかり、地元の県立高校を受験するもあえなく失敗。元の私立校で中3をもう一度やらせてもらうことになったのですが、これも結構な屈辱なんですよ。
かつての後輩と机を並べることも、同級生が同じ敷地内にある高校にいることも、テストの点が落ちていくことも。「元・神童」のプライドはズタズタ。運動もせずひきこもっていたので、ぶくぶくと太っていきました。
地元を歩けば、「あの優秀だった順三くんが……」という目で見られる。部屋の中に閉じこもっていても、近くの学校のチャイムや登下校の声が聞こえ、自分だけが普通でいられないつらさ、世間から取り残されていく恐怖に身をすくめていました。
母との距離感がずっとつかめなかった
両親にしてみれば、僕がなぜ不登校になったのか、わけがわからなかったと思います。学校がしんどい様子は家で見せていなかったし、夏休みも「いつも通り宿題もやってますけど?」という顔で過ごしてきたのが、いきなりベッドから出てこなくなったわけですから。お笑いでいえば、何の前フリもなく強烈なボケだけかますようなもので。(笑)
特に父の狼狽(ろうばい)ぶりはものすごく、始業式に起きてこない僕の脇腹にドロップキックをくらわすくらい激怒しました。税関職員という職業柄、非常に堅物で家でも絶対的な存在。そんな父に対して僕は家族で一番従順だったし、機嫌がよくなるツボを押さえてふるまうのが得意でした。
父は「高卒」という学歴にコンプレックスを抱えていたのかもしれない。僕が有名中学に合格したのも自慢だったはずです。そんな“できた息子”が、何の予兆もなく不登校という形で抵抗したのですから、パニックになるのも当然だったと思います。
毎朝、父がベッドから僕を引きずり出そうと格闘するのに疲れて勤めに出てしまうと、次に始まるのが母親の嫌み攻撃です。「ええご身分やねえ。高い授業料払(はろ)てんのに学校にも行かんと、何様のつもり?」と、ねちねち。しかも的を射た皮肉を全力でぶつけてくる。
父と違い、母とは昔から折り合いが悪かった。母との距離感がずっとつかめないままだったんです。僕にはそれぞれ5歳違いの兄と弟がいて、2人は母親派、僕が父親派という勢力図が、物心がつく頃にはできあがっていました。
幼稚園の頃、家に遊びに来た友だちに出したポテトチップスを、まだ赤ん坊だった弟にヨダレまみれにされ、台無しにされたことがあって。強く叱りつけた僕を、母親が割り箸を持った手でバチーンと叩いたのです。僕は「目を突かれる!」と、ものすごい恐怖を感じたのを今も覚えています。(笑)