コンビニで流れるJポップじゃないのだから、何でもかんでも意味がある、あなたの経験には唯一無二の価値があると言い過ぎるのも、どうなんでしょう。無駄を無駄として放っておいてくれないのは、何もできない、何もしていない人を許してくれない社会の風潮にもつながる気がして、しんどいなあと思います。

 

学校のバッグなんて自由に持たせたらいい

この春、長女が小学校に上がります。娘にはごく普通に、お友だちと仲良くして、みんなに溶け込むエキストラのようであってほしい。僕自身が常に「何者かにならねば」という思いに苛まれてきたぶん、娘には穏やかな人生を歩んでもらえたら嬉しいのです。

もしある程度の年齢になって、好きなことや得意なことを見つけ、自分から集団を飛び出したくなったら、どうぞご自由に、と思います。僕はそれを見守るだけです。

先日、ランドセルも届きました。最近は「ラン活」と言って、ずいぶん早いうちから選ぶんですね。表の革、裏地に留め具まで、組み合わせが380万通りもあるというんで驚きました。全国の1年生を合わせても、そんなにおらんでしょう。(笑)

それにランドセルにそれだけバリエーションを持たせるなら、リュックやらショルダーバッグやら、おのおの自由に持たせたらええのに、と思うんです。「自由に選べる」と言いながらあくまでランドセルという規定はある、というのがなんとも日本的ですよね。そこを限定されたうえで「無限大の可能性」をつきつけられても、正直困ってしまいますよ。

そもそも不登校やひきこもりが生まれるのも、中学と高校が3年ずつ、20歳前後までに大学に入って新卒で入社という暗黙のルールがあり、それを外れるダメージを恐れているせいかもしれません。

しんどかったらひと休みして、数年間ひきこもる人がいてもいいではないですか。何度もリセットして自分の人生を探せるような世の中になっていけば、子育てはもっと気楽で面白いものになるんじゃないでしょうか。

 

※本記事は2019年3月に取材したものです