ある意味ではお家騒動

しかしこれも近年、家康が自らの意思によって妻子を殺したという説が有力になっています。

徳川は長年、武田と戦い続けて疲弊しており、織田と手を切り、武田と結ぶべきだという一派が信康中心にできていた。家臣団が割れたことで、家康派が信康派を粛清したのではないか、というわけです。

つまり、ある意味ではお家騒動とも考えられるのです。なおこの事件は「築山殿事件」と呼ばれていましたが、今は「松平信康事件」と呼ばれることが多いようです。

 

《さらに詳しく》

1579年、家康は「信康は不覚悟につき、8月4日に岡崎から追い出した」と信長に伝えています。そして我が子に切腹を申し渡し、信康は自害。『改正三河後風土記』によると、信康は「私は武田勝頼に内通して謀反など企んでいない。このことだけは父上によくよく伝えてほしい」と涙にむせんだ、とか。

築山殿は、信康が自刃する前月に家康の命で刺殺され、首をもがれたという記述も。築山殿の最期を聞かされた家康は、「女のことではないか。尼などにしてどこかへ落とすなど、違うやり方があったろう」と眉をひそめたということです。

また徳川家康といえば、武田信玄に三方原の戦いで完敗した際、自画像を描かせ、慢心したときの戒めにしたとされる「顰(しかみ)像」が有名だが、近年、それは後世の作り話との説も出されています。