当時の人たちの考え方を理解するためにも

785年、長岡京造営の責任者だった藤原種継(たねつぐ)が暗殺されます。

桓武天皇の弟で皇太子の早良(さわら)親王も暗殺に関与したとされ淡路島に配流、その道中で死亡。その後、飢饉や疫病が流行、桓武天皇の身内の死が続き、息子も病に倒れ……。

陰陽師に占わせたところ、早良親王の怨霊のせいだと告げられました。

桓武天皇は精神的に不安定になり、平安京への遷都を決意したという説が有力です。今は、当時の人たちの考え方を理解するためにも、教科書から「怨霊」という言葉を排除しなくなったようです。