ドイツ連邦の誕生

フランス革命勃発から17年後の1806年、「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」がフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの出現で崩壊した。それから10年たらずでナポレオンが没落すると、1815年、主権国家の集合体としての「ドイツ連邦」ができた。

39(数え方によっては41)の領邦(邦国)が、かつての神聖ローマ皇帝であったオーストリア(ドイツ語風に表記すれば、エストライヒ)皇帝を議長とする連邦会議に参集するだけのつながりであった。

多民族国家であるこのドナウ君主国・ハプスブルク帝国のドイツ語圏であるオーストリアやプロイセンのような大国といっていいものから、バイエルン、ザクセンのような実力ある中規模の王国、さらに小規模の君主領、ハンブルクやリューベックといった都市国家にいたるまで、大小の邦国という地域国家によって「ドイツ」の地図はモザイクのように色分けされた。

1860年代にはドイツ統一戦争のなかでプロイセン王国を中心に「北ドイツ連邦」が成立し、オーストリアが「ドイツ」から排除される。プロイセン中心のこの連邦が発展する形で「ドイツ帝国」が成立するのが1871年であった。

以下の「ドイツ鉄道史」の区分は、そのドイツ帝国に生きた人びとの視点によるものであることに注意しておくべきだろう。

(1)1830年代後半 鉄道建設初期―複数の大都市と隣接都市の連絡
(2)1840年代初頭〜50年代前半 鉄道ブーム期―鉄道網の骨格形成
(3)1850年代後半〜60年代 鉄道建設最盛期―「ドイツ」規模の鉄道網ほぼ完成
(4)1870年代以降 国内鉄道建設の安定―鉄道網の整備と欧州規模への拡大ヘ

鉄道は、幕末・明治の日本人にとってそうであるように、19世紀はじめのドイツ人にとっても、外来の新技術であり新しい交通機関であった。その導入に苦労した先覚者、開拓者たちによる、ドイツ語圏の「鉄道前史」を語り落としてはならないだろう。