やはり「はじめにナポレオンありき」

2人の共通の経験は、ポスト・ナポレオン期に、ドイツ連邦に統一的な経済圏をもたらそうとする運動に触れたことである。

1832年にはバイエルン・プロイセン間の関税協定の話し合いにバイエルン王国代表団としてともに参加し、ベルリンで「ドイツ関税同盟」の考えに触れた。

内国関税を撤廃し、統一ドイツ市場をつくろうとする考えである。ニュルンベルクの地理的位置を生かし、「ドイツ市場」に新しい商機を求めねばならない。

鉄道建設の1つの原動力となったドイツの経済的統一を求める声もまた、ナポレオン時代がもたらしたものであった。

反フランス意識は、名目的には神聖ローマ帝国に属する領邦という地域国家の臣民だった人びとに「ドイツ人」という新しい自意識を芽生えさせた。

ナポレオンはドイツ語圏から逐(お)われたが、フランス革命が生んだ立憲主義的な体制に生きる自由な国民という理念は、地域によって濃淡の差はあれ残った。

ナポレオンと戦い、戦場から帰ってきた若者たちは、数だけを整理して成立した39の地方君主国家(いわゆる「自由都市」も市長という名の寡頭制的支配者をもったから、そうだといえる)に飽き足りない。立憲主義・自由主義と、統一ドイツ国家という理想がここに自然に結びつき、ポスト・ナポレオン時代の19世紀前半を貫く政治運動の基調となっていた。

鉄道の最初の伸長期は、世紀なかばの革命勃発に向けて社会が加速する、一面では「政治の季節」だったのである。