不幸なままでいてやる義理はない
三浦さんの代表作『まほろ駅前多田便利軒』のラストに、“幸福は再生する”という言葉がある。本書『墨のゆらめき』の読了後、その言葉に近い希望を抱いた。
失われたもの、もとから持っていないもの、壊されたもの。それらがもたらす痛みを抱え、それでも人は明日を生きねばならない。そのために必要なのは、絶望ではなく希望なのだと、三浦さんの作品は静かに訴えかける。
遠田も過去に色々ありましたが、書家としての道を教えてくれた先代との出会いがあり、そこからどんどん新しい世界を知っていきます。そんな遠田に、ちょっとでも報われてほしいという思いがありました。
遠田が大人になってから出会う人たちは、おしなべていい人が多いです。「こんないい人ばかりいるわけないだろう」という気持ちもあるけれど、「この世の中、悪い人ばっかりだよ」って思うより、「いや、そんなことはないはずだ」って、そう思いたい。
実際に生い立ちが複雑だったり、大変な思いをされている方が読んだら、「こんなに上手くいくわけない」とお怒りになるかもしれない――そんな不安を抱くこともあります。でも、不幸な生い立ちだからって、不幸なままでいてやる義理はないので。
“不幸な生い立ちだからって、不幸なままでいてやる義理はない”
三浦さんのこの思いは、「遠田」という愛すべき人物と、そんな遠田を放っておけない、真面目でお人好しの「チカ」に託された。世の中、捨てたもんじゃない。物語だからこそ、伝えられることがある。届けられる希望がある。それを受け取り、ほのかに灯った光を携え、怯えながらも新たな一歩を踏み出せる人が、きっと大勢いるだろう。
もちろん環境や生い立ちって、人にとってすごく大事なことです。傷つくような過去や出来事は、ないに越したことはない。でも、それだけがすべてかというと、絶対そうではなくて。何らかの出会いを通して、人は変われるはずだと信じたい。でもそれは、本人の努力でどうこうしろとか、何かを掴み取れとか、そういうことではなくて。そもそも根本的に、「この社会において、どうして苦しまなきゃいけない人が出てきてしまうのか」ということこそを、みんなで考えていかなきゃいけないと思うんですよ。
それなのに、辛い状況にある本人たちに対して、「自力で努力して、その境遇から脱せよ」みたいに言うのは、おかしいと思います。そういう人たちの状況が少しでも良くなるように、何らかの対策を考えるのが、まずは第一であるはずです。そのうえで、「ずっと変わらないままだ」と絶望するのも、なんか持っている側の人間の“思う壺”みたいな感じがして嫌なんですよ。
いつか、自分は変われるはずだ。変われるんだと、そう思えたら、ちょっと勇気が出てくる気がするんです。そういった物語を、これからも届けていけたらと思っています。