フィクションを盛り込むのであれば

「あくまでドラマなのだから、フィクションもアリだ」。

明智光秀を扇子で打ち据える織田信長(『新撰太閤記 此の人にして此病あり 織田信長 明智日向守光秀』(豊宣/明治16年(1883))

もちろん、よくわかります。

それこそ本能寺の変くらいに有名な事件であれば、視聴者も「光秀ではなく、家康が信長を討ったなんてそんなばかな。でも、ドラマが面白いからいいや」と見てくれるのかもしれない。だからこそ、そういう演出があってもよいのかもしれない。

ただし、あくまで歴史学者であるぼくは、やはり気持ちよく楽しむことはできません。

なぜならば、「フィクションを盛り込む」のだとしたら、それはあくまでも整合的になされるべきだと思うからです。

もしフィクションが破綻していたとしたら……。それは興ざめも良いところです。