フィクションがフィクション世界で破綻してしまう
具体的に書いていきます。
Aを襲撃する、暗殺する。
この時に難しいのは、逃走ルートを確保することだといいます。Aを討てるならそれで良い、あとのことは考えない。それなら、襲撃はわりと簡単なのです。
でもあとのことを考えるからこそ、計画を立てるのは難しくなる。この事情は、さいとうたかを先生の名作劇画が雄弁に物語っていますよね。
ドラマの中で、家康は信長を討つのに、数年の歳月をかけて準備したようです。ならば、この先「神君伊賀越え」は、まかりまちがっても起きないのでは?
史実の家康は、農民の襲撃から身を守りながら、命からがら伊勢の白子浜に出て、ここから舟に乗って三河に脱出しています。
同じく逃走を図った穴山梅雪が討ち取られてしまったように、この道行きはきわめて危険で、三方ヶ原の敗戦とともに、「家康生涯、最大のピンチ」に数えられています。ここまでの展開を見ている限り、ドラマでも描かれることは間違いないでしょう。
フィクションとして“信長襲撃”を描く。史実の“伊賀越え”も描く。
それでは「家康主従って、考える力も想像力も無いのですか」ということになりかねない。フィクションがフィクション世界で破綻してしまいます。
今回は個人的な感想や予想が先に立った記事になってしまいました。でもこういう事態は見たくないなあ。来週の放送が少しこわいです。
『「将軍」の日本史』(著:本郷和人/中公新書ラクレ)
幕府のトップとして武士を率いる「将軍」。源頼朝や徳川家康のように権威・権力を兼ね備え、強力なリーダーシップを発揮した大物だけではない。この国には、くじ引きで選ばれた将軍、子どもが50人いた「オットセイ将軍」、何もしなかったひ弱な将軍もいたのだ。そもそも将軍は誰が決めるのか、何をするのか。おなじみ本郷教授が、時代ごとに区分けされがちなアカデミズムの壁を乗り越えて日本の権力構造の謎に挑む、オドロキの将軍論。