性虐待被害者が身につける防衛本能
公園の遊具の中で雨露をしのぎ、そのへんに生えている雑草を食べ、日増しに油ぎっていく頭皮を掻きむしる。尊厳を守るために家を出たのに、気がつけば命の危機に瀕していた。それでも、「生きたい」という底力だけは確実に取り戻しつつあった。その証に、家を出るまでは受け付けなかった固形物が、するりと喉を通るようになっていた。
とはいえ、現実は甘いものではなく、何度も辛酸を舐めた。数回ではあるが、体を売ったこともある。回数の問題ではないこと、これが違法行為であることは重々承知している。それも、「今となっては」の話だが。当時の私は、その行為の危険性を正しく認識できていたとは言い難い。「生きるため」ーーそう思うだけで大抵のことは耐えられた。また、父親から受けた性虐待の影響で、私の体には己の身を守るための防衛本能が備わっていた。
長年受けた虐待行為により、
「濡れている」=「行為を受け入れている」と信じ込める人たちは、どこまでも“おめでたい”。日常的に性虐待を受けている人間が、毎回渇いた状態で挿入されたらどれほどの苦痛を被ることになるか、想像もつかないのだろう。一度や二度ではない。何度も、何ヵ月も、何年も続くのだ。「心が受け入れずとも、体は反応する」状態になるまで、さして時間はかからない。
売春時、幸いにも肉体的な暴力を振るう大人は少なく、むしろ私の身を案じてあれこれアドバイスしてくる男性のほうが多かった。「未成年の体を買う」大人が、少女に人生を説く。その矛盾にさえ、当時は気付けなかった。
言うまでもないことだが、売春だけではなく、買春(買う側)も違法行為である。そして、この一時凌ぎに過ぎない行為の代償は、思いのほか大きい。性病を移される危険性はもちろんのこと、相手によっては監禁や暴力による支配を強いられる場合もある。本記事を読み、親元から逃げる手段として安易にこの方法を選択する人が増えてほしくない。私が肉体的な意味で無事だったことは、ただ単に「運がよかった」だけに過ぎないことをここに書き添えておく。
それでも、私は家を出たことを後悔していない。あのままあそこに留まっていたら、私は確実に親を手にかけていた。それを踏みとどまれたから、今の自分がある。一線を越えるのは、案外容易い。あちら側とこちら側の境界線など、ほんの少し背中を押されただけで踏み越えてしまう。これは、牢獄のような家で私が学んだ、数少ない真理の一つだ。被害者と加害者の境目は、薄皮一枚でつながっている。