1975年頃に撮影された奈良岡さんの家族写真。前列左から2番目が両親に挟まれた奈良岡さん。後列右側が丹野さん(写真提供:劇団民藝)

奈良岡さんからの電話

私は奈良岡朋子の兄の長女。小さい頃は、会う機会はほぼゼロでした。なにせ旅公演をしながら次の作品の準備をし、テレビや映画にも出るなど、超多忙な生活。身内と会う時間などなかったのでしょう。

所属していた劇団民藝のチケットは、祖母がけっこう買わされており(笑)、わが家にも回ってくる。そんなわけで私も10歳のとき、サマセット・モーム作『報いられたもの』の公演に連れていかれました。

楽屋に行くと、髪の毛をトウモロコシ色に染めた人や、ドーランに付けまつ毛のすごい化粧の人たちがうようよしていて……。「なんだ、この世界は!」というのが第一印象でした。その後も何度か舞台を観に行ったものの、正直、当時の私にはピンと来ませんでした。子どもですものね。(笑)

大学の仏文科を卒業後ぶらぶらしていたら、突然奈良岡さんから電話がかかってきて、「今、民藝が演出部員を募集しているんだけど、あんた受けてみない?」と。ちょうどバイト先をクビになりそうだったので、なんとなく受けることに。翻訳という仕事に興味があったので、戯曲の翻訳をやらせてもらえるかもしれないと期待したのです。

合格の通知が来た夜、奈良岡さんから電話がかかってきて、「劇団に奈良岡は2人いらないのよ。それはわかっているわね」と、クールな口調で言います。「今さら、私が奈良岡って名前を変える必要があるかしら?」と疑問文で来られ、「それはないでしょう」と答えると、「じゃあ、あなたが変えてください」。それだけ言ってガチャンと電話が切れました。(笑)

私はみんなからノンタと呼ばれており、それがいつしかタンノに。だったら、タンノを名字にしよう。新劇はお金に縁がなさそうなので、姓名判断の本を立ち読みして「大マネービル運」の画数になるよう、丹野郁弓と名前を決めました。